「其の作業は私にとって彫刻であり 絵画だった
比の館は作業に参加した人々の作品であった 夢を実現させる為に
どんなに多くの個人や組織が努力された事か
其の方々に深い感謝の意を込めながら 私はこんな夢を思う
こゝを訪れた人々が ”古き良き時代"に皆んなが持って居た
あの心のゆとりを一瞬でも味わって呉れるようにと
そして 一目この館を今は亡き妻豊子に見せたかったと
石黒孝次郎」
クレッセントハウス創立時レリーフより。
レストランクレッセントが、63年の歴史が幕を閉じようとしています。
本来であれば、もっと別の形でいつかクレッセントハウスでの思い出を、作家として語ることができればと胸にひめておりましたが、コロナの影響により、残念ながら10月末で閉店となると伺い、クレッセントが変わり果てる前に、作家として多くを学んだこの場所についてを、祖父が残した「古く美しきもの」の本の中からも文章を引用させていただきながら、(中近東文化センターのご許可を得て)この場を借りて4〜5回に分けて語らせていただきたいと思います。(期間限定公開)
クレッセントハウスは、建造物としても素晴らしく、そこに拘った人たち皆の夢でもありました。
何事も一人で実現出来ることはなく、大切な人のためを想う程に、その努力はいっそう輝きを増す。時代がかわっても、それは誰かの胸のなかでかわらず輝きつづける。
今は、夢を追う人、何かを実現しようとしているすべての人に、このレリーフの言葉をとどけたいと思います。
レストランクレッセント、63年の歴史が幕を閉じます。
レストランクレッセント。1957年に設立されてから63年の歴史が幕を閉じようとしています。
祖父・石黒孝次郎が、建築としてもインテリアとしても世界観にこだわり抜いたのは、祖母・とよ子さんと一緒に素晴らしいレストランにして行けたら、という想いがありましたが、とよ子さんは、残念ながらオープン目前に急死。
その願いはかないませんでしたが、それでも祖母の魂と一緒に、素敵なレストランにしよう、と、亡くなるその日まで奮闘していたと思います。多くの人たちがここに訪れて、クレッセントは、様々な人生の物語を静かに見守り、時代の始まりと終わりを何度も経験していました。
祖父が健在の頃、小さなギャラリーでは数千年前の古代美術品にみちあふれていました。小さかった私はまだ価値もわからずドタバタとはしりまわって大人をヒヤヒヤさせていましたが、そこでスケッチをかさねて、今の切り絵や箔素材の作風につながりました。特に2年前からの箔素材を使ったジュエリーの、古代風・アンティーク風の世界観は、ここでの経験なくしては生まれなかったと思います。祖父亡き後、全ての古美術品はまとめて中近東文化センターに寄付されましたが、古美術商としての名残のようなものが今でも所々にあります。
オードリーヘップバーンの「お洒落泥棒」が大好きだった祖父は、仕掛け付きの本棚の隠し扉から通路を渡っていけるような螺旋階段から社長室に行けるような構造にしていたのですが、私はそれが大好きでした。
建物の地下にあるバーでは、メインとなるレストランの場とは雰囲気ががらりと変わって、美味しいワインやウィスキーなんかと一緒に、人の心の光も影も、全て呑み込んでいくような不思議な重厚感がありました。中世の田舎町のこぢんまりとした教会を思わせるチャペルでは、いつかここで結婚式をあげたい、と心から願っていました。
この建物のなかで、私の人生、創作における作風の半分以上が作られました。一つの建物の中で、いくつもの可能性を詰め込んだのが、クレッセントハウスでした。祖父が亡くなり我が家の手から離れても、この建物がまだここに存在している、というだけで、困難な時にも励まされました。
そのクレッセントも、ついに閉店。こんな形で、クレッセントハウスでの思い出についてを語る日が来るとは、想像もしていませんでした。
クレッセントハウス原オーナー・関係者の方々には、この場を長年「古き良き時代」をそのままに残し続けられていたことに敬意をいたきつつ、クレッセントハウスから何もかもなくなる前に、長年閉鎖されているギャラリー、チャペル、バー、夢のある社長室を、、レストラン以外の素晴らしい場所を、どうか最後に多くの人に見せてほしい。長年閉鎖されていたギャラリー、チャペル、バーも含めて、最後に輝けるよう、そんなささやかな願いを込めて。